深夜特急:沢木耕太郎
深夜特急は、1986年に発行された旅行エッセイです。
著者の沢木耕太郎は、26歳のときに急に思い立って、アジアを超えてロンドンに向かうという壮大な旅を無計画に行います。
文庫本全6巻にまとめられています。
1巻は香港での滞在を中心にまとめられています。
沢木耕太郎は、いきあたりばったりで旅行することを考えており、あえて最初からガイドブックを見て行き先や宿を調べることなく、とりあえず空港に行ってみて、困っている人を助けたらそのフィアンセの車に乗せてもらい、安宿を紹介してもらう、という具合です。
その宿がいわゆる連れ込み宿で、暗いし狭いし汚いのですぐに別の宿に移ろうと思っているのですが、そのうちになじんでしまい、ここを拠点に香港を遊び歩きます。
やがて香港の裏の顔ともいうべきディープな場所に魅せられて、そこでの毎日を味わうようになります。
やがてマカオにもいき、そこでカジノに入り浸ります。
最初は賭博をして身を亡ぼすのはばかばかしいと思っていたのですが、やがて身を亡ぼすほどの気概で賭博と向き合うことも旅行の醍醐味だと考えを変えてのめり込みます。
ここで失敗したら旅は終了してしまうのですが、そこをどう切り抜けたのか、など臨場感たっぷりに書かれており、本当に旅を一緒に経験したような気分にさせてくれます。
1冊は250ページ程度にまとめられており、文体も読みやすいので、すぐに読み終わってしまいます。
確かにこれは名作だなと思いました。
2巻目はタイ・マレーシア・シンガポールに場面が変わります。
ここでも連れ込み宿が拠点になります。
結局現地の物価ですら安い宿というのは、そういう宿しかないということになります。
旅行者ともなればそれなりの金額でそれなりの部屋を借りるのが旅の常識なので、そうではない宿泊料金を提示すればそうなるということなのでしょう。
タイ・マレーシア・シンガポールでは著者は、あまり楽しそうではありません。それは、香港での経験が強烈だったからです。この旅行では著者にとっては、現地の、しかも底辺の人たちの生活を知ることが重要だったのかもしれません。だからギリギリのところで生活を知恵を絞って生きている人たちと心の交流ができたときに喜びを感じるのでしょう。それが、この3つの国ではいずれも香港に劣る、という理由で面白みを感じられず、文章でもさほどのインパクトなく過ぎていきます。
3巻目では、インド・ネパールに移動します。ここでは、2巻とはうってかわり、香港に負けず劣らず(いやそれ以上)の環境で生活している人々に直面して、衝撃を受けます。このころには、「香港と比べて」という考えをすることがそもそもおかしいのだということにも気づいているようです。
それにしても、インドのカースト制の名残による差別にはすさまじいものがあり、またバスや列車での独特のルールにも、我々日本人からすると強烈です。
インドに行くと、また行きたいと思う人と二度と行きたくないと思う人の2種類に明確に分かれると聞いたことがありますが、私は後者です。いったことはありませんが、噂を聞くだけで、行きたくないと思ってしまいます。でもこうして体験を聞くのは面白いのです。
そこがこの著者の本の面白いところで、体験記ではあるものの、非常に読ませる内容になっていて、冗長でもないし、つまらないところは書いていないし、という内容がとても読みやすいのです。
そもそも1巻の冒頭が旅の途中の記述から始まっているのです。そこから、旅を始めた最初に戻るという書き方は、まるでドラマのコールドオープンを見ているようです。
面白いことに、著者は各国に行っても観光名所に興味が特段あるわけでもなく、行ったとしてもそこで特筆すべき出来事(特に人との交流)がなければ、それがどうだったかということはあまり書いていません。そもそも観光名所にいこうという気もないようです。
そんな中でも、インドでは、ガンジス川に偶然行き当たる描写があります。こんなところにないだろうと思って聞いてみたら火葬場だったという体験が書かれていますが、これは、「深い河」(遠藤周作)で読んだガンジス川の描写と全く同じでした。沢木耕太郎がいかに正確に記録したかということと、遠藤周作がいかに正確に調べたのか、ということが明らかになる気がしました。
インドで病気にまでなってしまうほどの強烈な体験は、著者を満足させたのか、あまりに長くいすぎると抜け出せなくなるという恐怖も手伝って、ある日、逃げるように次の国ネパールに移動します。
ネパールはインドとは違い、無茶苦茶な人々の生活描写は出てきません。そのことからもインドよりも過ごしやすい国なのだろうなと感じました。明るくてよい、ともありました。
4巻目では中東に入っていきます。著者は、パキスタン~アフガニスタン~イランと歩を進めていきます。安い宿に泊まるために、値段を値切ったばかりに客引きを手伝わされたりしています。しかし客引きを手伝うということは、その分自由に歩き回る時間を削られるということでもあります。ここまでくると最早何のために旅をしているのかという感じが読者の側にもしてきてしまいます。
日本人のグループがとまっているドミトリーを見つけて連日入り浸って話をする場面などは、日本語で話せることが恋しくなっている様が読み取れます。何か月も旅を続けていれば、それも貧乏旅であればなおさら、こうなってくるのでしょう。
それでもぬくぬくとしていられる旅行者に対して、嫌悪感を示してくる現地のホテルのマネージャーとの交流などは、底辺で生きるために幼いころから必死で働いている人には、旅をするほどの余裕があるのに貧乏旅行を敢えてする意味が理解できないというのは、確かにその通りと思います。いくら貧乏旅行とはいえ、それは自分で望んだことだし、旅行をする暇もあれば金もあるというのは幸せなことに違いありません。これを経験として仕事に活かすなどということは、なんとおこがましいことなのかと思えてしまうのです。
4巻は移動がメインの話で、タイトルが「シルクロード」とあることからもどこか一か所に留まることよりも絹の道を一つの場所としてとらえた記述をしているようです。
5巻目ではトルコからギリシャへと移動します。徐々に物価も上がっていくようですが、アジアとヨーロッパにまたがるトルコでは、まだ金銭的なやりとりの融通がきくようで、価格交渉する様子がうかがえます。著者の旅の目的が、限られた金額でロンドンまで移動することなので、その土地に暮らしている人々と同じような水準の生活をしていることが多く、そのために有料の観光スポットなどは避けるように過ごしてきた旅も終盤に近付き、多少の変化があったようで、トルコでは観光スポットもあえて入っています。
6巻目ではいよいよフィナーレです。イタリア~イギリスまでの軌跡をたどっています。
この深夜特急シリーズは、読むにつれて徐々に失速していく感じがします。香港・マカオ・インドあたりは著者が現地で感じた衝撃をそのままストレートに伝えていて、読んでいるこちらもギリギリの感覚を楽しんでいる著者の様子を感じ取れるほどでしたが、4巻あたりから急に単なる移動記録といった感じに移り変わっていき、読んでいても大して変わり映えのない内容になります。著者の旅行熱がだいぶ冷めている様子がところどころに書かれているのですが、それも手伝っているのでしょう。そして、この本が書かれたのが、旅行を終えてだいぶ経ってからというのも大いにあるのかもしれません。1~2巻目は旅行を終えて6年後、さらに10年後に続刊を出す、という感じなのでその間に著者の中でも風化してしまったのかもしれません。
それでもこれだけの一人旅を成し遂げて、しかも文章で読ませるものを世に送り出したのはすごいことだと思います。最初の方は冒険旅行の感さえあります。
全編通して感じるのは、この貧乏旅行記がうまくいった一因は、著者の180cmはあるという体格や、物おじせずに人と交流できる人柄、見た目などが相まって、諸外国の人に信用されたことが大きいように思います。著者はほとんど何も考えずにとりあえず何とかなるだろうで旅に出ていますが、その行き当たりばったり感にあこがれて一人でアジアを貧乏旅行することは、人によってはかなり危険なことではないかと思います。
ところで、深夜特急はすべての巻の巻末に、深夜特急の内容とは関係があまりない、対談記事が掲載されています。これもそれなりのページが割かれていますが、あまり面白い内容ではありません。
このために一冊が250ページくらいの厚さになっていますが、読み応えのある部分は実質的にはもっと少なくなるので、嵩増し(かさまし)感がぬぐえません。
収まりよくするための仕方のない措置だったのかもしれませんが、惜しい気持ちになりました。
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