いい意味で使われる馬の諺・故事を探そう
馬耳東風、馬の耳に念仏…馬にまつわる諺にはろくなものがありません。そこで折角午年なので、馬にまつわる良い意味で用いられる諺を探してみました。
調べてみてわかったことは、ほとんどの諺は中国の故事などから始まっているということです。また、馬はいい意味で使われないことの方が多く、いい意味で使う場合には、馬の速さをとりあげたり、対比させるために、馬の中でも優秀な馬と愚鈍な馬があることや、牛を悪い例に使うケースが多いです。
以下、必ずしも良い意味とは言えないかもしれないけれど、どちらかというとポジティブにとらえられるのではないか、という馬の諺・故事を50音順に並べました。機会があったら、会話の中にちりばめてみれば、「おっ」と思われたり話題作りに一役買うかもしれません。
敢えて後れたるに非ず、馬進まざればなり
(あえておくれたるにあらず、うますすまざればなり)
出典は孔子の論語です。昔の中国の魯という国に、大夫(たいふ)という役職に就いていた孟之反(もうしはん)という人物がいました。ある戦争で、敗色が濃くなり、味方の軍勢が退却する際に、自分が率いる軍の退却をわざと遅らせてしんがりを務め、味方の退却を助けました。そして、最後に自分が味方の城門に入る際に、馬に鞭を打ちながら上記の言葉を述べた、ということから残された故事です。
この言葉は、「わざと遅れたわけではない、馬が進まなかっただけだ」という意味です。しかし、実際はあえて遅れて味方を守ったので、「自分の功績を自慢せず謙遜する」ことの例えとして使われるようになりました。
秋高く馬肥ゆ
(あきたかくうまこゆ)
秋は空気も澄んでいて、空が高く感じられます。また秋は農作物の収穫の季節でもあり、馬もよく育つ時期です。そんな秋の快適な気候を示す言葉です。手紙などで時節の句として使われます。似たような表現に「秋高馬肥」「天高馬肥」「天高く馬肥ゆる秋」などがあります。
荒馬の轡は前から
(あらうまのくつわはまえから)
轡(くつわ)とは、馬を制御するために馬の口にかませる金具のことです。荒々しい馬であっても、意を決して正面から向かい、くつわをとってしまうと、意外に大人しくなる、という意味です。転じて、解決するのが困難そうな問題に対峙した際に、正面から堂々と対処すれば、意外に解決するものだ、という例えとして使われるようになりました。
鞍上人なく、鞍下馬なし
(あんじょうひとなく、あんかうまなし)
鞍(あん)とは、くらのことで、馬の背につけて人が乗れるようにする馬具のことです。「鞍上人なく、鞍下馬なし」とは、馬をあまりに巧みに操って乗っているために、まるで鞍の上に人が乗っていないように見える、また、鞍の下に馬がいないように見える、つまり、人馬一体となって走っているように見える、ということを意味します。転じて、巧みな操作をほめたたえる言葉として用いられます。
家に帰りたがる馬は高く売れる
(いえにかえりたがるうまはたかくうれる)
一瞬、やる気のなさそうな馬なのに、なんで高く売れるのか?と思いそうですが、これは、家から遠い市場などに連れてこられているにも関わらず、そこから自力で帰ることができるほど、記憶力のよい馬は頭がよい、ということで、値段を高くつけることができる、という意味になります。
生き馬の目を抜く
(いきうまのめをぬく)
生き馬の目を抜く、とは字の通りで、生きている馬から、目を抜き取ってしまうほどの素早さである、ことを意味します。転じて、人を出し抜き、抜け目なく油断がならない、という表現になります。若干ネガティブなイメージですが、すばしっこく油断がならない、という緊迫感に着目してみました。
牛は牛連れ、馬は馬連れ
(うしはうしづれ、うまはうまづれ)
何のことやら、と思うかもしれません。この諺のように牛と馬は対比として、諺や故事によく用いられます。牛には牛の歩調があり、馬には馬の歩調があります。ですから、牛と馬が連れ立って歩いていると、どうしても歩調の違いから一緒に歩むことができません。結局、自然と牛ならば牛同士で連れだって歩き、馬ならば馬同士で連れ立って歩くようになります。ここから転じて、似た者同士は自然と集まりやすいことの例えとして使われたり、似た者同士で行動するとうまくいくという意味で使われたりします。
牛も千里、馬も千里
(うしもせんり、うまもせんり)
古来、速度の面では、牛は馬よりも移動時間がかかる遅い生き物として劣っていると考えられてきました。しかし、歩調が遅かろうが、速かろうが、どちらも千里歩かせれば、千里歩くことはできます。つまり、スピードが速くても遅くても、同じところを目指していれば、いずれは到着するということです。転じて、要領がよく仕事の早い人であっても、要領が悪く仕事の遅い人であっても、同じ目標を立てて行動したならば、結局は同じ結果が得られるので、慌てなくてもいいよ、という意味で使われます。
牛を馬に乗り換える
(うしをうまにのりかえる)
牛は足の遅い生き物で、馬は足の速い生き物です。つまり、牛から馬に乗り換えたほうが移動時間が短縮されます。このことから、不利なものをやめて、より優れたものに切り替えることの例えとして使われる諺です。
馬が合う
(うまがあう)
乗馬においては、馬と乗り手である人の呼吸が合っていなければ、うまく移動することができません。「馬が合っている」ということは、馬と人がうまくいっていることを意味します。転じて、気が合っている、意気投合している様を例える言葉として使われます。
馬に乗るまでは牛に乗れ
(うまにのるまではうしにのれ)
ここでも馬は牛よりも高級なものという意味で使われています。馬に乗るには技術が必要になり、いきなりの乗馬は難しいということから、まずは馬よりも速度が遅く乗りやすい牛に乗って練習をした方がよい、という意味になります。言い換えると、馬に乗るということは、より上の地位に就く、という意味です。または最善の策を取る、という意味としてもとらえられます。実力もなしにいきなり一番よいものを選択するのではなく、まずは自分の身の丈に合ったものを使い、実力をつけてからステップアップしていきなさい、という例えとして使われます。また、何もしないでいるよりも、少しでも前に進められるように行動しなさい、という意味でも使われます。
馬に乗れば唄心
(うまにのればうたごころ)
馬に乗ると楽しくなり、高揚して歌を歌いたくなる、という意味です。
馬には乗ってみよ人には添うてみよ
(うまにはのってみよひとにはそうてみよ)
馬であればまず乗ってみなさい、人であればまず付き合ってみなさい、という意味です。馬に乗らずに馬の良し悪しはわからないし、人も話をして付き合ってみないとその人柄はわかりません。経験してもいないのに、わかった気になって批判するのではなく、まずは触れ合って経験してみることが大切である、ということを例えた諺です。
馬のもの覚えたよう
(うまのものおぼえたよう)
馬は、一度覚えると忘れないと言われています。そこから転じて、一度覚えたこと、経験したことをいつまでも忘れずにいることを意味する諺です。
馬は馬方
(うまはうまかた)
馬方というのは馬を扱うことを生業とした人のことです。馬のことは馬方が一番よく扱える、という意味です。つまり、専門家に任せるのが一番いいということです。相手が専門家であることをたたえて使うこともあります。同義語として餅は餅屋などがあります。
馬は土から
(うまはつちから)
よい馬を育てるには、まず土がよいことが条件である、という意味です。土とは、広い土地であったり、栄養のある良質な牧草地であったり、馬を育てるのによい環境である、ということです。転じて、よいものを得ようとするのであれば、その基礎となる部分からよいものでなければならない、という意味になります。
馬は八歳、牛は六歳
(うまははっさい、うしはろくさい)
この年齢は、働き盛りの年齢を意味します。馬だと八歳、牛だと六歳くらいのときが、一番働き盛りの年齢のため、このような表現のときは、働き盛りであることを示しています。
馬は宵に飼え、人は昼に飼え
(うまはよいにかえ、ひとはひるにかえ)
「飼え」というのは「食事を与えろ」という意味です。馬をよく働かせるためには、前日の夜中によく食事をさせておくことです。これが人の場合だと、昼食においしいものを食べさせると夜までよく働くことができます。このように、人を動かすには報酬の与え方が重要である、という例えとして使われる諺です。
馬を崋山の陽に帰し、牛を桃林の野に放つ
(うまをかざんのみなみにきし、うしをとうりんのやにはなつ)
中国の諺です。昔の中国にあった国である、周の武王が、殷という国をほろぼしたときに、その戦争で使った馬を崋山という場所の南側に帰しました。また、戦争で武器の運搬などに使用した牛は、桃林に逃がしました。その意図は、人民に「もはや戦争は終わった、もう二度と戦はしない」ということを示すためだったといわれています。転じて、争いごとが終わり、平和になったことの例えとして使われます。
馬を買わんと欲してまず牛を問う
(うまをかわんとほっしてまずうしをとう)
馬を買いたいと思ったら、まずは牛の値段を聞きなさい、という意味です。ここでは、牛は庶民的なもので、馬は高価なものの象徴です。つまり、高価なもの、相場のわからないものを買おうとする場合には、まず自分が相場をよく知っているものの値段をたずねれば、その地域の相場を知ることができる、という意味です。
老いたる馬は道を忘れず
(おいたるうまはみちをわすれず)
年を取った馬は、それだけ経験が豊富で色々な道を知っており、迷うことがありません。つまり、経験が豊富な人は、それだけ知識も豊富であるため、判断が適切だということです。転じて、高齢者は経験が豊富な人が多いので、助言を請い、その知恵や経験を生かした方がよい、という諺です。
駆け馬に鞭
(かけうまにむち)
走っている馬に鞭を打てば、さらにスピードアップして走ります。転じて、勢いがある人にさらに加勢をしてより勢いを増すことを意味します。同様の意味の言葉に「走り馬にも鞭」があります。
空馬に怪我なし
(からうまにけがなし)
空馬とは、馬に何も乗っていない状態を指します。背中に人や物が乗っていなければ、馬の身に何が起ころうと、人が怪我をしたり物を落として損をすることがないという意味です。転じて、何も持っていない人はそれ以上損をしない、落ちるところまで落ちた人は、それ以上落ちようがない、という意味で使います。
汗馬の労
(かんばのろう)
馬が汗をかくほど働いている様を意味します。仕事を成し遂げるために、大変な苦労をした、という例えとして、ねぎらいの言葉として使われます。
驥は一日にして千里なるも、駑馬も十駕すれば之に及ぶ
(きはいちにちにしてせんりなるも、どばもじゅうがすればこれにおよぶ)
驥(き)とは、一日に千里を走る名馬のことです。駑馬(どば)とは、足の遅い馬のことです。駕(が)とは、馬に車をつけて走ることを意味します。つまり、足の遅い馬であっても、十日間走れば、一日に千里を走る名馬に追いつくことができる、という意味です。凡人であっても努力次第では天才に追いつくことができる、という例えとして使われます。
驥尾に付す
(きびにふす)
驥(き)は、先ほども出てきましたが、一日に千里を走る名馬のことです。千里ほども遠くに飛ぶことのできないハエでも、名馬のしっぽにくっついてしまえば、一緒に千里のかなたまでいくことができる、という意味です。つまり、優れた人にくっついていれば、平凡な人でも能力以上のことを達成できるということです。この諺は、人と一緒に行動した際に、謙遜して使います。
癖ある馬に能あり
(くせあるうまにのうあり)
癖のある馬とは、気性が荒かったり気紛れだったりする馬のことです。このように癖のある馬は乗り辛いのですが、反面、非常に優れた能力を持っていることがあります。平凡な人よりも一癖ある人の方が、優れた能力を備えている、という例えとして使われます。同様の意味の言葉に「名馬に癖あり」があります。
癖ある馬に乗りあり
(くせあるうまにのりあり)
乗り辛い、一癖ある馬であっても、その個性をうまく生かすような乗り方をすれば、うまく乗りこなすことができるという例えとして使います。似たような諺に「蹴る馬も乗り手次第」というものがあります。
蹴る馬も乗り手次第
(けるうまものりてしだい)
人を蹴ろうとするような乱暴な馬であっても、乗り手がうまく扱えば、乗りこなすことができるという意味です。扱い辛い人であっても、接し方によって付き合いやすくなる、という例えとして使います。似たような諺に「癖ある馬に乗りあり」という言葉があります。
犬馬の心
(けんばのこころ)
犬や馬は、飼い主への忠誠心が厚い生き物です。犬馬の心とは、主に対して忠誠心があり恩義に報いようとする心のことを意味します。
犬馬の労
(けんばのろう)
犬馬の心同様、犬や馬は飼い主に忠節をもって働く生き物であることから、目上の人のため(もしくは他人の人のため)に尽力する例えとして使われます。
肥え馬、難無し
(こえうま、なんなし)
馬という生き物は、痩せているよりも少し太っているくらいの方が、健康的で欠点が少ないので、無難であるという意味です。
心をもってせざれば名馬生まれず
(こころをもってせざればめいばはうまれず)
馬を名馬に育てるには、お金をかけていいエサをあげたり、よい調教師をつけることがいいのではありません。名馬を育てるためには、飼い主の心が一番大事だという意味です。
猿に絵馬
(さるにえま)
猿と馬というのは、絵などでもたびたび組み合わせて描かれるために、取り合わせがよい、という例えとして使われます。
死に馬に鍼を刺す
(しにうまにはりをさす)
死んでいる馬に針をさしても何も反応しません。つまり、何の効果もないことの例えとして使われる言葉です。また、何をしても効果がないだろうと思われる状況でも、万が一の期待を込めて取る手段を意味することもあります。
死馬の骨を買う
(しばのほねをかう)
一日に千里を駆ける名馬がいるというので、王が使者を使わせて買いに行かせました。しかし、その馬は既に死んでいました。それにもかかわらず、使者は持たされた半分の金を使ってその馬の骨を買ってきました。そんなものを買ってどうするのかと怒る王に対して使者は「名馬であれば死んだ馬の骨であっても大金を払うという噂が広まれば、ものの値打ちがわかる王だという評判となって、きっと生きている名馬を売りに来る人がいるでしょう」と言いました。やがて王は、本当に名馬を手に入れました。この話から、優秀な人材を集めるためには、優秀でない人であっても優遇すれば、噂となって優秀な人がやってくるという例えになりました。また、非常に熱心に人を集めようとすることのたとえとしても使われます。
杓子馬も主が使えば歩く
(しゃくしうまもあるじがつかえばあるく)
杓子馬とは、足の遅い駄馬のことです。足の遅い馬であっても、その主がうまく使いこなせばそれなりに働く、という意味です。転じて、人や物は使い手次第である、という例えとして使われます。
秋高馬肥
(しゅうこうばひ)
秋は空気も澄んでいて、空が高く感じられます。また秋は農作物の収穫の季節でもあり、馬もよく育つ時期です。そんな秋の快適な気候を示す言葉です。手紙などで時節の句として使われます。似たような表現に「秋高く馬肥ゆ」「天高馬肥」「天高く馬肥ゆる秋」などがあります。
将を射んと欲すれば先ず馬を射よ
(しょうをいんとほっすればまずうまをいよ)
将とは武将のことです。武将を射落とそうとするのであれば、まず、武将が乗っている馬を射れば、足を止めさせることができるので、容易に狙えるようになる、という意味です。つまり、相手を屈服させるには、その人を直接狙うのではなく、その人が頼りにしているものから狙ったほうがうまくいく、ということです。同様の意味の言葉に「人を射んとせば先ず馬を射よ」があります。
竹馬の友
(ちくばのとも)
竹馬とは、中国の子どものおもちゃで、先端に馬に見立ててたてがみをつけた竹の棒です。この竹の棒にまたがって走って遊びます。日本のたけうまとは別のものです。この竹馬は、日本では春駒と呼ばれました。
竹馬の友とは、幼いころ竹馬という玩具に乗って一緒に遊んだ友達、という意味です。
手馬、手綱いらず
(てうまたづないらず)
手馬とは、飼いならした馬のことです。飼いならされた馬は、手綱を使わなくても主についてきてきちんということを聞きます。つまり、何も言わなくても主の意向をくんで行動する家来という意味で、お互いを知り尽くした主従関係の例えとして使われます。
天高馬肥
秋は空気も澄んでいて、空が高く感じられます。また秋は農作物の収穫の季節でもあり、馬もよく育つ時期です。そんな秋の快適な気候を示す言葉です。手紙などで時節の句として使われます。似たような表現に「秋高く馬肥ゆ」「秋高馬肥」「天高く馬肥ゆる秋」などがあります。
(てんこうばひ)
天高く馬肥ゆる秋
(てんたかくうまこゆるあき)
秋は空気も澄んでいて、空が高く感じられます。また秋は農作物の収穫の季節でもあり、馬もよく育つ時期です。そんな秋の快適な気候を示す言葉です。手紙などで時節の句として使われます。似たような表現に「秋高く馬肥ゆ」「秋高馬肥」「天高馬肥」などがあります。
走り馬にも鞭
(はしりうまにもむち)
走っている馬に鞭を打てば、さらにスピードアップして走ります。転じて、勢いがある人にさらに加勢をしてより勢いを増すことを意味します。同様の意味の言葉に「駆け馬に鞭」があります。
人を射んとせば先ず馬を射よ
(ひとをいんとせばまずうまをいよ)
人を射落とそうとするのであれば、まず、人が乗っている馬を射れば、足を止めさせることができるので、容易に狙えるようになる、という意味です。つまり、相手を屈服させるには、その人を直接狙うのではなく、その人が頼りにしているものから狙ったほうがうまくいく、ということです。同様の意味の言葉に「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」があります。
瓢箪から駒
(ひょうたんからこま)
駒とは馬のことです。瓢箪の小さな口から馬のように、到底入りきらない大きなものが飛び出してくる様を言っています。到底ありえないようなことが起こる、という例えとして使われます。
名馬に癖あり
(めいばにくせあり)
足の速い名馬は、乗りにくかったり気性が激しかったり、癖があるものだ、という意味です。転じて、能力の高い人は付き合い辛いものである、変わった人が多いという例えになります。また、反対に癖のない平凡な人は、大した働きはしない、という意味でも使われます。
輿馬を仮る者は足を労せずして千里を致す
(よばをかるものはあしをろうぜずしてせんりをいたす)
輿馬(よば)とは、御輿をのせた馬や馬車などのことです。馬車に乗って移動すれば、自分の足を使わないので疲れることなく、千里進むことができる、という意味です。自分の力だけで行わず、他のものの力を利用することで、簡単にことを成し遂げる例えとして使われます。
老馬の智
(ろうばのち)
老いた馬は、経験が豊かで知識が多いという意味です。つまり、経験が豊富な老人はそれだけ見識が深く、判断にも誤りがないので、学ぶところがあるという意味です。また、馬は物覚えがいいため、一度受けた恩は忘れない、という意味でも使われます。
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